スコーレ 115号に「私とレクリエーション史」と名打って、鎌倉市レクリエーション協会・会長の若木一美さんが寄稿文を寄せています。

若木さんとは、県立鎌倉青少年会館の利用サークルの行事でよく一緒に活動をしていました。

不動産会社の御曹司さんですので、発言や行動が積極的でした。

現在は、鎌倉市レクリエーション協会の会長さんをされているんですね。(小林 勝)

 

 <参照・引用/スコーレ 116号> 若木一美さん 2022.8.9 小林 勝

私とレクリエーション史 その2 

 若木 一美 わかき かずみ さん

 鎌倉市レクリエーション協会 会長

 (特定非営利活動法人) 神奈川県レクリエーション協会 広報誌「スコーレ」

 第116号(2022年4月1日発行)

 

昭和50年代(1975年~ )に入ると、(ここが、私たちだけでなく他の各種団体にとっても一つの大きな転換点だと思います。)ゲートボールやオリエンテーリング、クロッケー、インディアカ等のニュースポーツと呼ばれる活動が入ってきました。

鎌倉市でもインディアカを民踊協会のみなさんが始めました。「健康的な楽しみの生活化」の始まりは、専業主婦率の低下や大学進学率の増加につながり、地域における人と人のつながりが薄くなるとともに、社会環境が徐々に変わりつつありました。

またこの頃「ボランティア」という言葉も聞かれるようになりました。集団活動から個の活動へと移りつつあった頃です。私も「鎌倉ボランティアビューロー」という団体でゴミを拾いながらハイキングをする「クリーンハイキング」や「市内の福祉施設で軽スポーツ活動」を行いました。地域でのつながりが薄れるなか、神奈川県では「ふるさとまつり 〇〇」というような事業が推進されました。

昭和も終わりの昭和63年(1988年)、文部省で「生涯スポーツ課」と「競技スポーツ課」の2課分割が行われました。昭和61年(1986年)に保健体育審議会がスポーツ指導者の民間資格の一本化を目指し「社会体育指導者認定制度(案)」を策定し、日本レクリエーション協会は数年にわたる協議の結果、平成5年(1993年)4月1日付け文部省告示第49号により文部大臣認定社会体育指導者の知識・技能審査事業「レクリエーションに関する指導者」の事業認定団体となり、「レクリエーション・コーディネーター」(生涯スポーツの指導者)が誕生し、30年近くが経過しようとしていますが、私はここが混乱の始まりだと思っています。

この直後の平成8年(1996年)に名古屋市で開催された50周年記念大会で、日本レクリエーション協会総裁の三笠宮寛仁親王殿下からレク・サミットの提案があり、その中で「現在のレクリエーション運動は制度疲労を起こしている」とのお言葉がありました。

平成元年(1989年)6月、坪内会長が就任時に発表した「余暇関連資格」があります。この頃は世の中は「バブル景気」真っ只中であり、余暇を有効活用する提案ができる、或いは起業が出来るのではないかという思惑も手伝い瞬間的に人気が出た資格だろうと思います。しかし、バブル景気も長続きはせず経済状態もバブルがはじけたその時点にレクリエーション資格もはじけてしまったのかもわかりません。

また、平成7年(1995年)に文部科学省が提唱した「総合型スポーツクラブ」も始まりました。これが、二つ目の転換点だと思います。